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秋葉原通り魔事件 対談 その3

ひお「秋葉原の事件について『納得した』、というのは面白い観点ですね。
確かに、この事件はなんだか「想像を覆さない」感じだし
『少年A』のように、みんなが理解に苦しむような
動機・犯行の異常性も、猟奇性もないですね。
もちろん残酷な事件ではあるし、報道を見て大きなショックを受けたのですが
事件の詳細や犯人の動機、生い立ちを知るにつれ
『現代に起こりうるストーリー』をなぞらえているような、
そういう奇妙な既視感を覚えるようになってくる。
ある世代にとっては『わかりやすい事件』なのかもしれません。

ネットでの男女の違いの話。
出会い系で男女にそんなに差があるんだ!とびっくりでした。
ネット黎明期には、もう女であるというだけでよりどりみどりだったと
田口ランディのエッセイにあったけど、今も大して状況は変わってないわけですね。

確かに、女の子にとってのネットは『自己顕示欲を手軽に満たせるツール』
だと思います。そこは男の子とは違うかもしれない。
女の子だと、ちょっとエッチなことを書いたりしてうまく撮れた写真を載せれば
別に内容が面白くなくてもアクセス稼げますもんね。(笑)
それは男の子の場合だと成り立たないかも。
ただ、そうやって満たされた『自己顕示欲』が、本当に女の子自身を
癒してくれるのかどうかは、ちょっとわからないです。
歪んだ形であることは確かだと思うので。

どちらにせよ、『使い方』だと思うんですよね。
インターネットって。

ハラキリさんが書いている通り、『ネットでの人間関係』を
全て一緒くたには語れないとは思います。
掲示板とブログ、というだけでもそこでの関わりは種類が違うし
ブログという『定位置』を持つことで、そこにはなんとなく
コミュニケーションに対する責任 のようなものが生まれるように思います。

ネットの使い方は、本当に人によってはさまざまで
わたしの場合、ネットもブログも、始めた当初は
『普段は出せない自分を120%解放する場所』でしかなくて
そこでの姿は、現実の自分とは全く繋がらないものだったわけです。
だから、ネットで知り合った人と現実でも繋がろう、友達を増やそう
という考えははじめから全く考えになくて。

『完全に開かれているにも関わらず、自分だけの世界を築ける閉鎖的な場所』
というのがわたしにとってのインターネットの世界だったし、
そこで適度に自己顕示欲を満たす、というのが
わたしの『ネットの使い方』だったわけです。

でもみんながみんなそういうネットの使い方をしているわけではなくて、
ネットで発生した繋がりを、ちゃんと現実に持ち込める人もいるのですよね。
例えば、『オフ会』なんかがその一例でしょうか。
現実とネットの姿が完全に遊離している(と、自分では思っている)
わたしにすれば考えられないことなのですけど、
結構やってる人が多いので、『それが普通なのか!』とびっくりでした。

で、わたしからすると、そういう人というのは
『ネットで得た虚像を、ちゃんと実像に転換できる力のある人』
に見えるのです。
ネットでの影響力を、ちゃんと現実に持ち込めるといいますか。
だから本当に、ネットは使い方次第でどうにでもなるものなのだなぁと思います。

豊かな人間関係を築くためのツールとしてネットを使える人もいれば、
自己顕示欲を満たすためのツールにする人もいるし、
虚像でしかない関わりを最後の希望だとすがりついて
そこでの無責任で根拠のない言葉や悪意に、深く傷つけられてしまう人もいる。
そういうのは結局はコミュニケーション能力の差、なのかなぁと思ってます。

秋葉原の彼は、あまりにも現実世界の中での他者との関わりが薄く、
ネットを最後の関わりにしていたような感じがします。
その中でも特に匿名性の高い掲示板でしか自分をさらす方法を知らなくて、
そこでの出来事の影響力があまりにも大きくなりすぎたのかも。
本当は広いはずのネットの世界なのに、
彼にとってはその掲示板という狭い世界で相手にされるかどうか、が
全てになってしまって。
それはとても危険なことなのに、そう気がつく客観性もなかった。
そこが自分を否定すれば、世界中に否定されたように感じたのだろうし
実際にそう思える裏づけが現実世界にたくさんあった、のでしょう。

ネットの世界でもいいし、その中のどんなところでも構わないから
せめて、彼がもっと別の『自分が相手にされるところ』を発見できるくらいに
他者との関わりにしがみついてくれていれば、
まだ救いはあったのではないかなぁと思います。

そういう意味では、確かに彼が女性だったらこういうかたちの犯罪は
起きなかったのかもしれませんね。
たとえ仮初めのものだとしても、自分を受け止めてくれる場所が
容易く見つかったかもしれないから。」


ハラキリ「そうですね、彼にとって犯罪も一つのコミュニケーションだったように思います

多くの人が感じるように、独善的で身勝手な行為ではもちろんあると思うんですけども

世界と関わりたくないわけでも、ただ人を殺したかったわけでもなくて

彼が夢見ていたのは「人殺しの先でさわぐ世界」だったと思うんですよ


つまり、彼はネット掲示板で相手にされなかったから

人を殺せば相手にしてもらえるはずだ、と無意識的に夢見たってことになると思います

彼にとって人殺しは目的ではなくて、ツールだったんじゃないかな

世間に自分を理解してもらうための、コミュニケーションツール

人を殺すまでは誰も見向きもしなかった僕の人生を

今は皆が見てくれるんだ


つまり「報道されて騒がれることを含めて、それが今の殺人」という感覚ですね

殺人という一言のなかに、殺したあとのマスコミ報道を絶対に彼は夢見ていたと思うし

むしろその希望とコミュニケーションしながら、彼は車を走らせた、と


もし、この世界で殺人の報道を隠すような風習があって、誰もあんなふうには報道されないとしたら

彼はたぶん、人を殺さなかったでしょうね

そんなことをしても、彼のなかで、意味がないというか・・

人を殺しても、掲示板に書き込んでも、無反応しか返ってこない、というむなしさが

彼を殺人ではなく自殺へ向かわせたかもしれません


彼は反応がほしかった、で、それを今手に入れて

だからといって、今しあわせ、というわけでは決してないと思いますけども

少なくとも、反応がもらえる、ということを予測できたからこそ、人を殺したという点で

彼は、未来の、つまり今の我々の反応とコミュニケーションしながら

車を走らせた


僕を見て、僕を見て、僕はここだよ

僕を見て


そんな声が聞こえてくるようなさみしさにこそ

人々が少し 共感のようなものを感じているのかな、って思います」


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テーマ: ひとりごとのようなもの -  ジャンル: 日記
by 切腹ザムライ  at 00:28 |  未分類 |  comment (1)  |  trackback (0)  |  page top ↑
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by  2008/07/07 22:27   [ 編集 ]
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